わーわーずが立ち上がった1999年には、走っていませんでした。また走るなんて、考えることもありませんでした。
2000年冬、松本さんのシドニーパラリンピックでの、柔道で銅メダル取得のお祝い会が、ランとはまったく関係のない仲間であり、そのときに走ってることやわーわーずのことを知りました。
見えているときは体を動かすことは好きだったので、興味を持ちました。それに失明後、社会復帰して5年がたち、仕事や生活にも慣れてきたので、何かしたいなーと思っていたときでした。
早速その年の最後の練習会に参加し、長居の周回コース約2,8キロを走りきることはできませんでした。
足がもたなかった事もありますが、中途失明で、いきなり真っ暗の中を走るとゆうのは、やはり怖く感じて、はじめから「よし!走るぞー!」って、言う気持ちにはなりませんでした。
なので、わーわーずのスタンスである、「当日センターに集まった人で練習会を行う。」とゆう点は、私にとって、参加しやすく、また続けやすかったです。
暖かくなって、またわーわーず練習会に行き始めたとき、最寄り駅が同じだった三島さんご夫妻に声をかけていただいて、一緒に行き帰りするようになりました。
ご主人は、パラリンピックに出られるすごいランナーで、フルマラソンを熱く語ってはりました。
奥様の早苗さんは、100キロのウルトラマラソンを笑って楽しそうに話しはります。
そのときの私にとって、フルマラソンはもちろん100キロもどんなものか想像もつかない未知の世界の話でした。
お二人が熱く、楽しく話されるマラソンって、どんなのかすごく興味を持ちました。
そんな時、その年の4月末、三島さんご夫妻が交通事故にあい、亡くなられました。もっといろんなお話を聞きたかったのですけど、聞けなくなり、このことが「マラソンって、どんなんやろー。」と、引かれていくことになって行ったような気がします。
続けて参加しているうちにやっと「体を動かすことって、いいなー!」という気持ちになってきた頃、竹中さんからFRUNのうずらさんを紹介していただいて、週1回の練習ができるようになりました。
そうなると、わーわーずの練習会でも少し速く走れたり、距離が長く走れるようになったりと、だんだん走ることが楽しくなってきました。
そこでうずらさんと何か目標を持ちましょうと、2001年11月の福知山マラソンに挑戦することになりました。
そして、同じ頃走り始めた奥田さんも、同じく福知山マラソンに挑戦という、目標を持ち、お互いに励ましあったり、対抗しあったりと練習にも力が入りました。
結果、福知山マラソンでは、二人とも無事完走でき、ゴール直後は喜びもありましたが、やっと終わってホッとしたのが、実感でした。
このフルマラソン挑戦で、スタート前の緊張感やゴールの感動、やればできるとゆうこと、そして、たくさんの人との出会い、などなど。いろんなことがあり、生活は一変して、マラソン中心の生活となりました。
私が走り始めた頃のわーわーずは、走るブラインドが少なくて、全体の参加者もこじんまりでしたが、ぼちぼち走ることができました。
2,3年するとブラインドが10名を超えるようになり、だんだんガイド不足となっていきました。
ブラインドが交代で走ったり、二人伴走や弱視の人は後ろからついて走ったりというような練習会が続きました。
その伴走者不足を何とかするためにホームページを立ち上げたり、MLでの参加をまとめたり、看板を作ったり、わーわーずの練習会のPRチラシを作って、大会や各地の練習会で配ったり、みんなで協力して取り組みました。
そして、東京のNSVAの皆さんに、「伴走教室」を大阪で2回開催していただきました。
すぐには結果は出ませんでしたが、ガイドの参加がだんだん増えていきました。
そんな頃、長居障害者スポーツセンターへクラブ登録を行い、備品の管理や参加者の更衣や荷物の預かりなど、センター利用もしやすくなり、長居とゆう立地条件も参加しやすい大きな要因になったと思います。
ここ2,3年は、マラソンブームも追い風となって、ペアリングでブラインドが余ることなく、練習会ができるようになりました。
最近ブラインドの参加者も増えてきて、全員で40名前後の練習会です。1番多かったときは、あわせて、70名からの練習会となったときは、びっくりしました。
わーわーずを立ち上げてくれはった永田さん、その当時から、そして、今までの10年間、その時々に携わってくれはった皆さんが、細く長く続けてきてくれはったからだと思います。だからこそたくさんの人がつながってるんだなーと最近つくづく感じます。
そんな皆さんに感謝です。ありがとうございます。
またこれからもどうぞよろしくお願いします。
わーわーずには、2009年2月から参加しています。
以前から伴走をしたいと思っていましたが、もっと速くならないとできないのかと思っていました。もっと早くからさがして、参加していたら良かったと思っています。
長居公園は、30数年前学生時代にランニングを始めた思い出の地です。
伴走を始めてから、町なかで「障がい」を持った人に出会った時の気持ちが変わりました。「自分でも手伝えることがたくさんある」ことがわかりました。
70歳までフルマラソンで完走し続けたいと思っていましたが、先日60キロマラソンに出たときに70歳代の人もいたので、自分の目標もウルトラマラソンに完走し続けることに変更しました。
伴走以外にも、長年自分の人生を豊かにしてくれたランニングに恩返しできることをさがしています。
うずらです、わーわーず10周年おめでとうございます。
初めて、わーわーず練習会に参加したのは、2000年の始め頃だったでしょうか。
その日は、大和川遠征の日に当たり、松の木さんと一緒に走ってもらいました。さらしで作った伴走ひもが持ちやすく、背丈の差も気にならず、公園内ではなく、外に出て行くということで、余計に緊張していた私を、うまくリラックスさせながら走って下さったこと覚えています。
その頃、frun(インターネット上の走友会、エフラン)で、ご一緒している針小路さんから、私の仕事場近くに、ブラインドランナーがおられるので、一緒に走りませんか?と、サケもっとさんを紹介してもらい、定期的に走るようになりました。
2001年、サケもっとさん初フルの福知山は、とても印象深い出来事です。練習のお供はできても、本番レースの伴走は無理、と、辞退していたのですが、ラストの5kmを一緒に走ることができて、最後の坂道を上がってのゴールは、自分の初フル以上に嬉しかったこと、思い出されます。
旗を作ったのは、2003年でしたか(メグさんの投稿で気がつきました)。
9月に当時滋賀で開催されていた全国視覚障害者駅伝で、旗があれば、ってことで、お盆休みにせっせと作りましたよ。
伴走に関わる以前は、大会などで、ブラインドランナーと伴走者のペアが走っているところを見て、伴走って難しいんじゃないの? 自分には出来ないことだわ、と決め付けていましたが、これこそ「習うより慣れろ」だなぁ、と思います。
ここ数年、長居の練習会には、ほとんど参加せずで、ごめんなさい。
参加者も増え、ますます、わーわーと賑やかに走っておられるところに、またお邪魔しますね。
これからも、和気藹々と練習会が続きますこと、お祈りしています。
本文終わり