長居わーわーず10周年にあたり

                               松本義和
1999年3月、現在わーわーずの会長である永田さんが「また長居でマラソン練習会をするから一緒に走りましょう」とうちの職場を尋ねてきてくれた。
永田さんとは以前長居公園で行われていた関西盲人マラソン協会(KBMA)の練習会で伴走してもらって一緒に走ってた。

約2年ほど前にKBMAは自然消滅的に練習会がなくなっていた。
それでも、その間自分で練習をして、毎年のように大阪シティーハーフマラソンに参加してた。
そんな「走りたい」と言う気持ちが大きくなっていたさなかの永田さんからのお誘い。早速仲間に入れてもらい練習会に参加するようになった。

当初は月1度(第2日曜日)だけの練習会だったが、参加者が「もっと走りたい」との声もあり、数ヶ月後からは月2回(第2・4日曜日)に拡大した。

そしてその歳の9月に滋賀県で行われる第2回全国視覚障害者駅伝大会にみんなで参加しようと言うことになり、チーム名を永田さんの発案で「わーわーず」と決めた。
ちなみに「わーわーず」とは、伴走ロープの輪とみんなわいわい仲間の和をもじってつけたものである。

そしてまた翌年には「わーわーず」だけではちょっと寂しいと言う声もあり、現在の「長居わーわーず」と変更された。

練習時間は創設当初、着替えをしていた長居障害者スポーツセンターが9時30分開館だったので、そのまま練習開始も9時30分となった。

当初1・2年は夏期の間、暑さ対策もあって、練習開始が8時30分にしていたこともあったが、やはり着替えができないとの事で、それはとりやめることになった。

わーわーず創設当時は、参加者が7人から10人ちょっとと言ったところだった。
僕が知るかぎり一番少なかったのは4人だけということもあった。
そして創設7・8年ぐらいまでは、ブラインドよりも伴走者の方が少ない事もよくあった。
そんな時は、一人の伴走者が両手に伴走ロープを持ってする両手伴走(2人伴走)をしたり、究極にはその後ろに弱視者を引き連れての3人伴走と言ったこともあった。 ここ1・2年は伴走者の数も増え、そう言った事もほとんどなくなってきたし、また前回の練習会(2009/7/12)では総勢71人も参加し、わーわーずも大きくなってきたもんだと驚くばかりである。

確か2006年には長居障害者スポーツセンターの公認クラブにもなり、エイドのグッズなどをセンターに保管できるようにもなった。

僕もわーわーずに参加して、フルマラソンにもチャレンジし完走することができたし、また駅伝を始めいろんな大会やイベントに参加することができ、本当に良かったと感じている。
そして多くの視覚障害者はもちろんだが、伴走者でさえもわーわーずの練習会にくるようになり、それまでほとんど走っていなかったのに、ハーフマラソンやフルマラソン、もっと言うならウルトラマラソンにも参加して完走したりする事は本当に喜ばしいばかりである。

しかしそんな中、一つ悲しい大きな事件があった。
それは創設後2年たった2001年4月29日、わーわーず創設時から参加していた、いやそれ以前、日本の視覚障害者マラソンの草分け的な存在であった三島夫妻が自宅近くをジョギング中によそ見をしていたワゴン車にはねられ二人とも亡くなった事故である。

旦那さんはソウルとバルセロナのパラリンピック日本代表で、奥さんは日本の視覚障害者女子で初めてウルトラを走ったと言う夫妻である。
お二人の死はこれから大きくなろうとしていたわーわーずにとって本当に痛手であった。

それ以降、お二人の命日に近い4月の第4日曜日の練習会では、「三島夫妻追悼ラン」として、お二人を偲ぶのはもちろん、会員全員に交通事故には十分気を付け安全で楽しいマラソンをするようによびかけるようになった。

これからもわーわーずは三島夫妻の「走りたい」と言う思いを引き継いで、もっともっと楽しく充実したマラソン練習会にしていきたいものである。

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