こんにちは。るみちゃん(福原)です。ブラインドランナーです。

私が走り始めたのは、1988年4月からでした。
視覚障がい者の訓練センターに入ってから、訓練生に誘われたのがきっかけです。
そのころは視覚障がい者が走っていることが少なくて、初めて大会に行ったときに
「こんなに少ないのか」とびっくりしました。
たとえば、国体の予選である、「大阪市のスポーツ大会、3人、
「第6回視覚障がい者京都マラソン大会」、そのとおじは、5KMが最高で、全盲女子、
4人でした。
それからも、いろんな大会に出るうちに、だんだん走ることが、
おもしろくなってきました。
卒業後、走る環境がなくなったので、自分で、工夫をして、運動を続けながら、
大会に参加していました。
たとえば、縄跳び、その場駈け足など。
そうして過ごすうちに、1994年、「関西盲人マラソン協会(KBMA)」を
紹介してもらい、3月から、参加することになりました。
そこで、お世話になり、ランニングシューズの選び方、
伴走のしてもらい方などを教えてもらいました。
それが、数年後に解散となり、またまた走る環境がなくなったので、
今度は、そのときの伴走者さんにお願いして、走ってもらいながら、
大会に出場していました。
1998年、4月に初めてのフルマラソン、12月にはホノルルマラソンに
参加していました。
そして、1999年の3月、「わーわーず」ができました。
できたころは、ブラインドの数も、伴走者さんの数もすくなかったです。
練習会が、月に1回でしたが、伴走者さんのご協力で、駅伝に参加。
それから、私自身も、3回目のフルマラソンに参加、なんと3位入賞という
嬉しい結果を出すことができました。それからもいろんな大会に参加しました。
しばらくして、月2回になり、ブラインドランナー、伴走者さんが増え、練習環境も
整ってきました。
その矢先、三島さん夫妻が交通事故で亡くなられるという
悲しい出来事がありました。
そのとき、「二人のランナーの意思を引き継いで、わーわーずを盛り上げて
行こう」と思いました。
それからしばらくして、わーわーずMLやHPができ、練習会の告知をしたり、
レポートなどを、皆で掲載を始めました。
そのころから、しばらく、微力ですが、会長をさせてもらっていました。
頼りない会長でしたが、皆さんのご協力で、勤めることができたこと、
感謝しています。
2006年からクラブ登録され、チラシを見たり、障がい者スポーツセンターなどで、
聞いた人が、ますます多く増え、本当にわーわーずらしくなってきたと思います。
私が走り始めたときより、環境が整ってきたので、走りやすくなったと思います。
嬉しいです。今年10年を無事に過ごせて、11年目を迎えられたこと、喜んでいます。
これからも、もっと、20年、30ねん、と、細く長く続けて行ける様に、
わーわーず皆さん一丸となって、盛り上げて行きましょう。よろしくお願いします。


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