「回想」
             岸和田市民病院リハビリテーション科 梶原 次昭


作品や業績に注目されることが多い。かのピカソやゴッホがその代表だろう。
「三島先生は世界のトップランナーやで!」初めて聞いたとき、
「え〜!このおっちゃんが?」と思ったことを思い出す。就職して同じ職場になったのがきっかけで知り合ったが、目の前にいる小さな巨人は、どう見ても普通の人に見えた。僕なんかはすぐ自慢したいタイプだが、先生は自分からは決して大記録の事も口にしなかったので、そう聞いてもピンとこなかった。すごい人はただならぬ雰囲気や、滲み出るオーラみたいなものがあるはずなのだが、先生はそうでない(失礼!)。だから、気軽に話が出来たし、冗談も言い合えた。たぶん先生は「気遣いの人」だったから、僕たちにそうさせてくれていたんだろう。気取らない、偉そばらない。そこが先生のいいところで、人間三島康幸を知らず知らずに好きになる。そんな「三島マジック」にまんまと引っかかった一人だ。    
 先生が逝ってからたくさんの人がその死を悼み、先生の残した数々の輝かしい記録や、暖かい人柄を思い返すことで、改めて存在の偉大さに気づきたくさんの人が集まってくる。まさに、先生は視覚障害者ランナーとしても人生のランナーとしても芸術家だったんだなと、勝手に思って感心している。
 先生は慎重で、研究熱心だった印象が強い。パソコンを買ったときも、僕はとりあえず触って遊ぶタイプだけど、先生は分厚いマニュアルを「そこまで見るか?」と言うくらい熟読研究し、何でも質問に答えてくれた。結局パソコン暦は僕のほうが古いものの、知識ははるかに負けてたかもね。
インターネットに繋ぐのもプロバイダーを研究していて、1年経っても決まらなくて、とうとうインターネットに繋がずじまいでしたね・・・。何に対しても基礎がためをしっかりやるところ、ホンとに関心させられたし、いつも見習わなければと心の中で思っていました。
 携帯電話も僕が折たたみ式に変えたら、先生もカラー液晶のをすっごく欲しがってましたね。 「1500ポイントまでためたら買い換えるでぇ〜」と楽しみにしていて、もうちょっとだったのに・・・。楽しそうにデスクのところでカタログを眺めていた姿、鮮明に思い出します。先生はルーペで机に伏せるように書類を見ていたから、デスクが向かいの僕には、間に立てた本棚が邪魔で一瞬先生がいないように見えていた。だから今でも先生がそこにいる気がしてなりません。だけど今は亡くなる少し前に撮った最高の笑顔の遺影があるだけ。
ふざけてなんとなく撮った写真だったけど、僕らには大切な形見になった。
今までなんとなく知っていても、うまく説明できない、実感できない言葉があった。
「儚い」という言葉もその内のひとつだった。お通夜で棺の中に眠る先生の顔を見たとき、それは涙となって心の中に染み込んだ。
 時々ふざけて先生の口調をまねしてみるけど、人間としての大きさまでは、まね出来そうに無い。せめて天国にいる先生に、あのぶっきらぼうな口調で注意されないような人生を送ることを遺影の笑顔に誓おう・・・。
                                   梶原次昭


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