「知り合えた喜びを今も」
    (西脇レディース、福知山マラソン等の早苗さんの伴走者)堀江 誠子

 三島さんご夫妻と 初めて出会ったのは 1992年春の長居公園での関西盲人
マラソン協会の月に1度の定期記録会でした。
 それまでに参加していたマラソン大会で 伴走者と共に走っておられる視力
障害者のランナーを時々お見かけし、私も伴走できるかしらと、思い、問い合わせて
知った会でした。 2回目の記録会の時に、思い切って、三島早苗さんに『日曜日の
定例記録会より平日の方が出かけやすいから、一緒に練習してもらえませんか』と、か
声をけました。早苗さんは、あの満笑みの顔で、喜んでくださり、それからおつき合いが
始まりました。
 1996年の春には、私の仕事の都合で走られなくなりましたが、その間、週に
1回程度長居公園での練習や、時々 レースに出ていました。その後も 電話で
話したり、時々お会いしていました。
 大変 練習熱心な方で、他にも伴走者を得られて、練習しておられましたし、
一人でも身障者スポーツセンターで、マシーンを使っても練習しておられました。
私などは 何か追い立てられるものがないと 練習しないものですから、早苗さんと
走らせてもらうことで なんとか練習量を確保できているという状態でした。
 おしゃべりしながら ゆっくりジョギングしたり、また、目標タイムを作って、
インターバルトレーニングをしたりと、2人でのランニングは とても楽しいものでした。
 レースは 2人一緒に完走出来たときは 喜びも倍で、私は1人での孤独な
レースよりも むしろ好きでした。
 早苗さんは、高校1年まで普通学校に通っておられたのですが、進行性の
視力障害で、その後盲学校に 編入されたという経歴です。
 私と一緒に走っている期間にも、視力が落ちてこられました。
 最初のころは 長居公園の歩道の縁石が見えて、それを目安に 1人でも 
ゆっくりゆっくりジョギングすることが可能でした。ある冬、風邪がきっかけで 
一気に視力が落ち、『縁石が見えなくなってしまった。』と、泣いて電話して
こられました。
 見えていたものが見えなくなる。出来ていたことが出来なくなる。そのつらさを 
想像するだけで今でも悲しくなります。励ましの言葉も見つからず、ただ聞くのみ
でした。心配していた私の所に、康幸さんが 公衆電話からの電話で『本人が
克服していかんとどうにもならん問題ですが、見守ってやってください。
よろしくお願いします。』と、言ってこられました。
 1週間ほどして 明るい声で 『心配かけてすみませんでした。見えなくても、
心配してくれる友達が一杯いる。見えなくても走ることが出来ると思うと、
幸せです。』と、電話がかかり、立ち直りの早さに ただただ感心させられる
ばかりでした。
 『主人なしでは 生きていけない。』と、よく言われていた早苗さんでした。
精神的に大きな支えであられて 本当に仲のよい お2人でした。
 時には 『でもね、 けんかした時も 手をつながんと 歩かれへんから いやな
時もありますよ。』と、笑い話の中にも、納得するものがありました。
 テレビや新聞など 多くの取材を受けておられたお2人でしたが、早苗さんは、
恥ずかしいし、ええかっこしてるみたいに思われたらいやですけれど、障害をもっても、
こうやってスポーツができることを 他の障害者の人にも教えてあげられる
きっかけになれば うれしいから 機会があれば 取材を受けることにしている。と、
言われていました。
 康幸さんは 2時間38分という才能と努力なしには、作れない記録の持ち主
です。マラソンで3時間を切るということだけでも並大抵のことではありません。 
彼は新聞の記事が社会面ではなく、スポーツ面に載って、障害者がスポーツ 
することが当たり前の時代になってほしいとおっしゃっていました。
 三島さんの友人仲間と、わたしの近所のランニング仲間と、その子供達と、共に
『共生共走11時間リレーマラソン大会』でも、走りました。
 ランニングに興味を持ち出していた、当時 中学生の息子は、康幸さんの
走りに、そしてお人柄に魅せられて、彼を目標にして、クラブ活動に精を出し、
今ではトライアスロンで頑張っていますが、彼もまた この度の悲報に、大変な
ショックを受けた1人です。
 1年に1回、三島さん宅に仲間でお呼ばれしていました。おいしい煮物や
茶わん蒸しなど手作りのお料理まで作ってくださって、ビールと共に頂いた楽しい
1日を忘れることができません。
 いつも視力障害者みんなの迷惑にならないようにと、細心の注意を払って
おられたお二人でした。自分たちの行動が、自分たち個人だけでなく、視力
障害者全員に関わるということを常に意識して、慎重にされていました。
今度の事故は、そういう意味で、お二人にとって無念だったと思います。
視力障害があったから事故に遭ってしまったという誤解を与えることがあったかも
しれないからです。そのくやしさを思うと涙がでてきます。
 お二人がこつこつと築いてこられたものが、一瞬にしてなくなってしまう悲しさを
 今回 思い知らされました。
 追悼集を作って お二人の軌跡を残そうと 企画、行動してくださいました
岸和田市民病院の松浦さんをはじめ、関係者の方々に感謝申し上げます。
 お二人が亡くなられて、3ヶ月あまり、なかなか書くことができませんでした。
無念で無念でならなかったからです。わたし自身、乗り越えることができなかったの
です。大好きな お2人どおしが、大好きなジョギング中に天国に行ってしまわれた
のだからと、思うことにしても、心から思うには時間が必要です。残っている者が、
こんなに思いを引きずったらいけませんね。お二人で、手を取り合って、天国から
ご家族のこと、私たちのこと、見守ってくださいね。三島さんたちの分まで 
頑張るからね。幸せになるからね。友人でおれたことを誇りに思うからね。
いろいろとありがとうございました。ご冥福を心からお祈りしています。
                               池田市 堀江誠子


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